凍てつく寒さが和らいだと思ったら、季節はあっという間に夏のヒリつく暑さを迎えていた。
 三年間という長そうで短かった高校生活を、ボクらは無事に卒業することができた。
 そして、一人一人に進むべき道があるように、ボクも璃子も新しい環境へと踏み出していた。

 璃子は「東京へ行って、歌に挑戦したい」という想いを、おじさんに改めて打ち明けた。
 おじさんは「なにも心配するな」と、快く送り出したそうだ。一人娘が家を出るのは、親として色々と思うとこもあったかもしれない。
 詳しい内容は聞かなかったけど、おじさんの身体の心配や一人で上京する不安。きっと、璃子にしか分からない悩みも、たくさん話し合ったのだろう。
「東京へ行く!」と、ボクに力強く告げる璃子の表情は、晴れ晴れとしていて、まったく迷いが感じられなかった。
 その後の、もじもじした璃子の姿が、今でも鮮明に頭に残っている。
「私が前に進む決心がついたのは、大介がくれた温かい言葉や大切なことを教えてくれた絵のおかげだよ。本当に、ありがとうね!」
 その飾らない言葉がうれしくて、ボクが描いた絵も少しは役に立てたのかなとホッとした。
 東京に旅立った璃子は、いくつかのバイトをかけもちしながら、夜はライブハウスに出ていると言っていた。そこで知り合った人たちから、別のライブ出演依頼も相談されているらしく、定期的にやりとりしている電話の話では順調そうだった。
 璃子の夢を後押しするために描いた絵は、実はボク自身にも大きな変化をもたらしていた。

 ――卒業式の前日。
 高校の卒業を迎えるまでに、兄さんへどうしても伝えておかなければならいことがあった。
 ケータイを握りしめる手は、やけに強張っている。ぷるる。と鳴るコール音に合わせて、心臓が飛び跳ねているようだった。
「もしもし? どうした、大介?」
 兄さんのいつもと変わらない声音に、なんだかホッとする反面、なんと切り出したらいいのか言葉が出なくなってしまう。
「明日の卒業式出れなくて、ごめんな。なんとか、休みを取れるように、ギリギリまで頑張ってはみたんだが……」
 本当に残念そうな声で、兄さんは溜息を落としている。
「ううん、仕事なんだし仕方がないよ。それより兄さんに話さないといけないことがあるんだ」
「うん、なんだ? そんな、あらたまって?」
 公園で璃子と話し合ったときとは、少し違う重苦しさが胸にのしかかった。
「実は、美大で絵を勉強するために、浪人しようと思っている。もちろん、バイトも増やして、兄さんに負担がかからないようにするから! ……本当に色々と迷惑かけた上に、ワガママまで言ってごめん」
「なーんだ、そんなことか」
 受話器越しの声は、意外にも苦笑交じりだった。
 兄さんが働いてくれているおかげで、高校にも通えていて、挙げ句の果ては進路を卒業までに決めきれず浪人して美大に行きたい。『出来の悪い弟』と、ひどく呆れられるのは、覚悟の上だった。
「何度も言っただろ。金とかそうゆうこと気にせず、やりたいことやれ、って」
「兄さん、……ありがとう」という声に、自然と涙が含まれて、それは頬を伝っていく。
「そんな泣くことないだろう。でも、約束を二つ守ってくれ。まず一つ目、美大に受かるためにする勉強を、絶対におろそかにしないこと。二つ目、美大に入っても、ちゃんと勉強して絵に向き合うこと」
「分かった、約束は必ず守るよ。本当にありがとう」
「卒業式の前に、目を腫らしたらカッコ悪いし、今日はもう寝ろよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
 ツーツー、と終話音が響くケータイを耳に押し当てたまま、遠く離れた兄さんに、頭を下げて「ありがとう」と一人つぶやいた。


 そんなこんなの出来事があって、ボクも美術系の予備校とバイトの日々で、毎日を忙しく過ごしていた。結局、色んな人に心配や迷惑をかけて、遠回りになったのに、おかしな話で、毎日がとても充実していた。美大に行く道を選ばずに働いていたら、きっと後悔していたと思う。
 予備校に行く時間になって、ボクはイスにかけたカバンに慌ただしく手をのばした。
 机に立てかけている一枚の絵に、視線を向ける。
 そこには、はじめてギターを手にしたころと変わらない、笑顔で歌う璃子の姿があった。